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【水論】文明開化と水資源管理

中村 晋一郎
名古屋大学大学院工学研究科土木工学専攻 専任講師

2018年07月17日

新たな水資源管理に向けて

 今年の1月から2月にかけて北陸地方を中心に大寒波が襲いました.石川県能登地方では水道管が破裂して1万世帯以上が断水し自衛隊が給水活動をするまで被害は拡大しました.一部報道によると被害が拡大した原因の一つは空家での水道管の破裂と言われています.空家での水道管の破裂は,昨年にも福岡県でも発生したことが記憶に新しいです.これらの根本には,深刻な人口減少と少子高齢化といった,現代の私たちにつきつけられた深刻な課題があります.水道以外にも農業従事者の高齢化やあと継ぎ不足による耕作放棄地が増加し灌漑用水の安定的な管理に支障を期待していますし,その背後地に位置する森林も維持管理が行き届かず水源涵養力の低下していることが指摘されています.人口減少や少子高齢化という社会的変化に加えて,近年では気候変動による降雨パターンの変化が原因とみられる異常気象が各地で発生しています.いよいよ私たちは,これらの変化に適応する持続可能な水資源管理のあり方について真剣に考える時期に来ているように思います.これまで経験したことのない水資源に関する課題に対して,私たちはどのように対処していけばよいのでしょうか.

私たち日本人はこれまでにも様々な変化に直面しては,水に関する技術や制度の刷新や改正を行いながら,時代時代の状況へと適応してきました.為政者や政治体制の交代,戦争やその後急激な経済成長といった社会的変化,または飢饉や大干ばつ,または水害といった天災も技術や制度を見直すきっかけとなったことが知られています.このような先人たちの変化への適応の結果として,現在の水管理の技術や制度があるわけです.そして今,先に述べたような大きな社会的,自然環境的な変化に直面している私たちは,これまで先人が蓄積してきた水管理の経験を振り返り,その中からこれからの持続可能な水資源管理のあり方を導くことは一つの方法であると思います.

そこでここでは日本の水資源管理にも大きな変革が起こった明治の文明開化の時期に注目して,当時の先人たちがそれまでの近世から近代という新たな時代へとどのように適応していったのか,その歴史を振り返ることから水資源管理のあり方について考察してみたいと思います.

 

近代化とお雇い外国人

1868年(慶応3年)129日,王政復古の大号令とともに,日本はそれまでの幕末から近代へと大きく舵を取ることになりました.そして,翌年の明治天皇即位に伴う改元によって年号が明治に改められ,日本は近代を歩み出しました.当時世界で高まっていた帝国主義の圧力もあり,日本政府は急いで日本社会を西洋化,近代化する必要に迫られました.そこで当時の政府がとった方法の一つが,お雇い外国人という欧米の専門家を日本へ招き入れることでした.例えば,医学はドイツから,法律はドイツやフランスなどから,そして鉄道や上水道といったインフラはイギリスからお雇い外国人を招きました.このように分野によって異なる国々から学ぶ姿勢は,今から見ると,悪く言えばバラバラ,よく言えば良いとこ取りであったことが分かります(一つの国だけからすべてを学ぶこともそれはそれで問題だったのでしょうが).では本題の水資源管理はどこから学んだかというとオランダでした.なぜ日本は国土の地形から気象までまったく異なるオランダから水資源管理を学んだのか,その理由はいまだはっきりしませんが,オランダ人たちが日本の現在の水資源管理の礎を築いたことに疑いの余地はありません.

 

新コンセプト「流量」の登場

本稿の読者にとっては当たり前かもしれませんが,水を管理する際に用いる単位は流量です.流量(Qm3/s)は流路の断面積(Am2)と流速(Vm/s)の積によって求められるわけですが,明治以前は,流速を計測する手法が存在しなかったこともあり流量の概念は存在しなかったと考えられています.明治以前は,受益者で一定の試用期間を決めてそれぞれの受益者に不利益がないか様子見ながら水の分配を決める「みためし」などの経験的な手法が用いられていたことが知られています.仮に,ある水道施設を設計する際,その施設の規模を決めるには事前にそれぞれの量や配分を決めておく必要がありますが,当時は流量の計算方法がないので「みためし」のような方法がとられていたと考えられます.近代とは何かといえば,一つは事前に物事を決めておくこと,つまり「計画」という概念があることだと言えます.水分野において計画を行うためには「流量」の概念とその測定や計算技術が必須でした.

では,この「流量」という概念はいつ日本に入ってきたのでしょうか.日本で最初に流量の概念が紹介されたのは,明治維新によって日本が開国した直後であるとみられています.1871(明治4)に,熱海貞爾という政府の翻訳官の手によって「治水摘要」と「治水学主河編」という二つの和訳書が刊行されています.この中で流量と,上で示したような計算方法が登場します.これらの和訳書の原典は,オランダの大学教頭及び水政の長官であったStorm Buysing1864年に記した「WATERBOUWKUNDE(第三版)」であることが分かっています.熱海がどのような経緯でこの本を翻訳することになったのかは分かっていませんが,オランダ人技術者が来日するのはもう少しあとですので,それにより以前にこのような専門書が既に日本に存在したのは興味深い事実です.

 

制度の整備

流量をはじめとする技術的な西洋化が進む中,一方で政府は水資源管理に関する制度整備を進めました.明治元 (1868) 10月には早くも淀川の改修を目的とした「治河使」という行政組織が設置されています.そして1870(明治3)11月には,日本で最初の河川に関する制度である「治水策要領」が交付をされました.この要領は全14項によって構成されていて,この中で近代水資源管理の要である流量の算出に不可欠な量水標(水位計)の設置と河川の測量の実施等が指示されました.ここに日本の水制度の嚆矢が登場するわけですが,この「治水策要領」はあまりに専門的であったためその実現性に疑問符がつき,同年12月には全面的に改定されてしまいます.この改定を経て出されたのが「治水法規」であり,治水法規は治水策要領とはうって変わり,河川事業に関わる手続きやその規制を中心として文書化されました.

そして明治6(1873)8月に当時の大蔵省通達により河川管理の規則が決められた「河港道路修築規則」が制定され,これにより河川の等級を設定し,河川管理に関する中央・地方の責任区分やその費用負担が明文化されました.これによりそれまで地域ごとに任されていた河川や水資源管理が中央政府によって統一的に行われる現在の河川管理の考え方が定まりました.そして,淀川を皮切りに14の河川で直轄での河川事業が開始されました.

 

お雇い外国人の来日と近代技術の導入

このように法制度の整備が先行する中,明治5(1872)2月,いよいよオランダから二人の技術者が来日します.一人は長工師ファン・ドールン,もう一人は工兵士官リンドウです.彼らに最初に託された仕事は,淀川や利根川,木曽川などの重要な大河川の改修と,その水源の砂防工事でした.明治初期,水資源に関する事業の中心は「低水事業」と河道安定のために土砂流出を抑制する「治山事業」でした.低水事業とは,舟運のために平常時の水深を確保・維持したり,農業用水を安定的に取水したりするために河川の水流を安定化することを目的とした事業です.一部の河川では洪水の防御も目的の一つとして行われましたが,当時の最大の目的は低水の安定化でした.

彼らは来日から2か月後の明治5(1872)4月には,利根川及び江戸川の改修計画を立案するために,現地踏査及び量水標の設置を行いました.このとき利根川の境町に設置された量水標が日本で最初の水位観測所と言われています.その後,リンドウが引き続き利根川の測量及び量水標の設置を行い,計10か所に量水標を設置しました.また,淀川でも同年7月に,毛馬,中之島の山崎の鼻と西の鼻に量水標が設置されました.当時,全国でどの程度量水表が設置されたのかは定かではありませんが,例えば地方河川である阿賀野川でも明治15(1882)年には量水表が設置されていますので,その後10年程度で全国の主要河川において量水標の設置及び測量が実施されたとみられます.これによって,水資源管理に不可欠な「観測」の体制が整いました.

またファン・ドールンは,利根川,淀川の踏査結果を受けて,日本の河川管理の技術的な方針を「河水改修ノ考按」としてまとめました.この内容はすぐさま「治水総論」と名前を変えて技術テキストとして和訳され政府へ提出されました.先述した「治水学主河編」はオランダで既に出版されていた専門書を単に和訳しただけですので,「治水総論」が日本の水資源の実情に合わせて書かれた最初の専門書であったと言えます.

ファン・ドールンはこの中で,今後の河川改修に向けて必要となる技術を詳細に記しました.内容は,水資源管理に用いる用語の解説にはじまり,測量法,水制や堤防その他の河川施設の設計法など,実例を示しながら丁寧に解説されています.そして,流量の設定に必要な流速の公式も以下のように紹介されました.

 

鉛直流速公式:  

 

u:平均流速(尺/秒) u0:最大流速(尺/秒) r:平均水深()y:水面勾配

 

この式のオリジナルは,ダルシー(Darcy. H.)とバザン(Bazin. H.)によって1865年にフランスで発表されたものであり,ヨーロッパにおける比較的新しい知見が当時の日本へ導入されたことが分かります.

 

近代水資源管理の開始

ファン・ドールンは利根川に続いて行われた淀川の現地調査のあと,さらに数名の技術者をオランダから呼び寄せました.エッシャー,ティッセン,ウイール,そしてその後のわが国の河川事業に多大な功績を残すことになるヨハネス・デレーケの4名が来日し,早速淀川の測量に着手しました.

  彼らが日本にやってきた当時,当然ながら,近代的な測量や調査に必要な機器は日本には存在しませんでした.よって彼らは細かな指示書を作成し,現地でそれらの機材の制作から指示しました.その指示内容は「淀川修治測量入用具見込申出」として残っています.この指示書によれば,鋼線をつかったメジャー,水深計測の為の竹竿,測量杭の作り方,そしてそれらの設置方法に至るまでこと細かに指示されたことが分かります.未開の地で行う測量,観測の苦労が伺えます.

彼らはこのような課題を一つ一つ解決しながら約1年かけて測量を終え,改修計画の立案に取り掛かりました.当時の淀川は,他の河川と同様,江戸時代の主要エネルギー源であった木炭を得るために上流の山々ははげ山と化しており,そこから流れ出る大量の土砂によって舟運に大変な支障を来していました.そのため,彼らは上流の砂防事業を計画するとともに,ヨーロッパ式の粗朶水制を河道に設置することで流路の安定化を図り小型蒸気船が航行できるように改修案をまとめました.明治8(1875)年にはその案が日本最初の近代河川計画「淀川築修計画」として当時の実質的首相であった大久保利通内務卿へと提出され,すぐに事業が実施されました.この事業はその約10年後に,ふたたびデ・レーケの手によって,近代都市・大阪の礎となる大阪港の築港と新淀川(放水路)の開削へと結びついていきました.

 

制度と技術の両輪

この淀川での改修事業を皮切りに,全国の主要河川で近代河川改修が実施され,その後の日本の急速な発展を支える水資源管理が進んで行きます.明治初期は低水事業が水資源管理の主目的でしたが,明治中期になると全国で大水害が多発したことから,その目的が水害防御(高水事業)へと移っていき,明治29(1896)年には最初の河川法が制定されます.これによりその後の河川行政の骨格が完成することになりました.

以上の明治初期の水資源めぐる一連の流れを見ると,文明開化という日本史上最も大きな変化に直面した当時の先人たちが行ったことは,大きく二つだったことが分かります.一つは制度の構築,もう一つが新技術の導入です.制度については,明治元年(1868)に淀川へ「治河使」を置いたように制度を運用する行政組織の設置,そして「治水策要領」にはじまり「河港道路修築規則」に至る制度の構築でした.特に「河港道路修築規則」は管理責任を明確にした上で,それに応じて費用負担が明確化された点で重要な制度であったと言えます.一方,新技術の導入については「流量」という革新的な概念とそれを軸にした観測体制の構築が最大のイノベーションであったと言えます.しかし,例えば「治水策要領」が単に組織や費用負担といった狭義の行政的な決め事だけでなく,測量や観測体制といった技術的な条文を多く含んでいたことも分かる通り,当時において制度と技術は明確に区分されていたわけではありませんでした.制度と技術は密接に絡み合う両輪として,新たな時代を切り開いていったわけです.

新たな時代に直面した当時の先人たちの経験を振り返ってみると,この中には今現在大きな変化を目の前にしている私たちにとって,少なくない示唆が含まれているように思います.その一つが制度と技術のあり方に関するものです.私は研究者ですが,近年の専門性の高度化にともない研究者や技術者は技術だけを追求するようになり,制度整備をはじめとする現場とのつながりが薄れてきていることは広く指摘されているところです.一方で技術そのもののイノベーションの要請は高まるばかりで,日々新たな技術開発に向けて研究が進んでいますが,現状において制度と技術的イノベーションが密接に連携しているとは言えません.新たな変化に対して,この制度と技術の溝を埋めることが今まさに水資源管理にも求められているように思います.再び制度と技術が両輪となって,新たな時代を切り開いていく時代が来ていると言えるのではないでしょうか.